〈ブギの女王〉笠置シヅ子の魅力!「東京ブギウギ」で有名な昭和の歌姫を紹介します。

笠置シズ子 エンタメ

笠置シヅ子は、戦前から戦後にかけて活躍し「ブギの女王」として一世を風靡した日本の歌手・俳優です。

当時の日本では、直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった邦楽会にブギのリズムで歌って踊るパフォーマンスを取り入れ革命的な存在となりました。

2023年10月よりNHK連続テレビ小説「ブギウギ」では、笠置シズ子をモデルとしたドラマが始まります。

この記事では日本のエンターテインメントに一時代を気付いた笠置シズ子をどこよりも分かりやすく紹介します。

笠置シヅ子の経歴

笠置シズ子は、1914年(大正3年)香川県に生まれました。本名は亀井 静子。

父親は、シズ子が出生後に亡くなり、母親は母乳の出が悪かった為、大阪の米屋の養女となり大阪で幼少期を過ごしました。

宝塚音楽歌劇学校を受験するが、残念ながら不合格。松竹楽劇部生徒募集所に合格し三笠静子の芸名で初舞台を踏むことになります。

1934年(20歳)日本コロンビアから「恋のステップ」でレコードデビュー。

22歳「笠置シズ子」に改名。

1938年(24歳)帝国劇場で旗揚げした「松竹楽劇団」に参加し、そこで今後大きな転機となる作曲家・服部良一と出会うことになります。

そこで服部はシズ子の適性を見抜きジャズ歌手として売り出しますが、当時日中戦争の戦時色が濃くなって「贅沢は敵」というスローガンの元、警察から目をつけられる存在になります。

戦争がますます激化して第二次世界大戦に突入するとジャズは敵国の音楽となり、シズ子の活動範囲は限られてきて、ステージ用に作られた楽曲で兵隊や軍需工場の慰問で活動する時期もありました。

1947年(33歳)日本劇場で開催されるショーで歌った「東京ブギウギ」が大ヒット。服部良一が作ってシズ子が歌うブギは、ここからヒットを連発しました。

笠置シズ子のブギもの
東京ブギウギ
買物ブギ
ヘイヘイブギ
ホームラン・ブギ
大阪ブギ
服部良一とは
戦前から戦後にかけて日本の音楽シーンに多大な影響を与えた作曲家
日本の歌謡界を語る上では、重要人物の一人です。
代表曲:「別れのブルース」「蘇州夜曲」「青い山脈」「銀座カンカン娘」など

当時の笠置シズ子の勢いはすさまじく、後にスターになる美空ひばりが、シズ子のモノマネをしてベビー笠置として世に出るきっかけになったことも有名です。

今では想像できないほど当時は映画全盛の時代で、映画にも頻繁に出演しています。

1948年(34歳)黒澤明監督「酔いどれ天使」出演。

1949年(35歳)映画「銀座カンカン娘」に出演。歌は共演の高峰秀子。

私生活では幼少期からの付き合いで9つ下の吉本穎右(吉本興業の創業者・吉本せいの子)と知り合って交際に発展。妊娠に至るもせいに認めてもらえず、結婚することはありませんでした。

後に穎右は23歳の若さで亡くなりますが、その死から数日後に女児を出産しシングルマザーとして生きる道を選びました。

こうしたシズ子の生き方は、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた売春婦に支持されます。

1957年(43歳)やがてブギの人気も下火になると、歌手廃業を宣言して映画に出演すべく俳優業に専念しました。

また俳優業に専念する際、「スター・笠置シズ子」のギャラでは使ってもらえないから、ギャラを下げてくださいと、降格の交渉をしています。

遺族の話によると歌手引退後は、生涯歌を歌わなかったとか。

1985年(70歳)死去

(ウィキペディア(Wikipedia)より引用)

笠置シヅ子の特徴

笠置シヅ子の特徴としては、何といっても舞台で歌って踊る彼女の歌唱法です。

おそらく日本人として歌って踊る歌手の第一号ではないかと思います。

しかもその踊りは、決められた振り付けがない完全アドリブ。

70年以上前に日本のエンターテインメントにこのような人がいたのは、驚きです。

ディズニーランドでミッキー・マウスが踊っているところを見ると、心の底からお客さんに楽しんでもらいたいというショーマンシップを感じますが、笠置シヅ子の歌と踊りにも同じものを感じます。

「ブギの女王」に集約されるように作曲家・服部良一とのコンビでブギもののヒット曲を多く生み出してきました。

最大のヒット曲「東京ブギウギ」が、戦後にヒットしたことから、戦後の復興と合わせて活躍した歌手という印象もあるかもしれませんが、実際は戦前から大スターになっています。

20歳にレコードデビューを果たし終戦までの5年間に出したレコードは、6曲。

ピンク13

録音した曲は、全部で53曲ですから戦前の曲は意外にも少ないです。

どうやら、本人の良さが表現できるのは舞台と認識しており、舞台を制限されていた時代には、レコードの録音も控えていたのではないかと想像できます。

—服部良一『ぼくの音楽人生』(ウィキペディア(Wikipedia)より引用
大阪で一番人気のあるステージ歌手と聞いて「どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」のだが来たのは、髪を無造作に束ね薬瓶を手に目をしょぼつかせ、コテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子であった。

だがいったん舞台に立つと「…全くの別人だった」。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って「オドウレ。踊ウれ」の掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。

その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと納得した。

映像を見ても分かるとおり笠置シヅ子の表現者としても特徴は、リズム感です。

ブギは、1900年代のアメリカにおいて黒人音楽の中から生まれたジャンルと言われていますが、服部良一がそれを取り入れ、1940年代には笠置シヅ子が自分の歌として歌っています。

我々現代に生きる者は、生まれた時からいろいろな音楽にふれているので、今改めてブギを聴いても、納得はするかもしれませんが、感動までには至らないと思います。

当時の人達は、初めて聴くブギをどんな気持ちで聴いていたのか興味があります。

そんなブギを自分の歌として表現していたのが、笠置シヅ子だったわけです。

音楽好き、エンターテインメント好きの筆者は、昭和歌謡に歴史を刻んだ歌手を改めて思い返してみましたが、笠置シヅ子っぽい歌手はいません。

1957年(43歳)ブギの人気が下火になると俳優業に専念して、芸名を「笠置シズ子」から「笠置シヅ子」へ改名しています。

「ズ」を「ヅ」に変えたわけですが、本人としてはブギの女王として活躍した栄光を汚したくないという意思があったのかもしれません。

紅白歌合戦の出場回数は、4回。

大スターと言われているわりには、歴史に名前を残した歌手としては少ない感じがします。

これは完全に筆者の想像ですが、おそらくNHK受けしなかったのだと思います。

ピンク12

日本で初めて踊りながら歌った歌手。

シングルマザーとして子供を育てた。

俳優に転向して、その後は歌うことはなかった。

やはり本人の突き抜け具合は、半端なかったのでしょう。

いつの時代でも真剣に人生掛けて生きている人は、応援したくなりますね。

代表曲1 東京ブギウギ

代表曲2 買物ブギー

代表曲3 ラッパと娘

代表曲4 ヴォルガの舟歌/ジャングル・ブギー

代表曲5 ヘイヘイブギー

代表曲6 大阪ブギウギ

代表曲7 セコハン娘

https://www.youtube.com/watch?v=BdEG6Pq_3YI
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