服部良一は、戦前戦後に国民的ヒット曲を世に送り出した作曲家・編曲家です。
村雨まさをの名前で作詞家としての一面も持っています。
『別れのブルース』『東京ブギウギ』『青い山脈』『銀座カンカン娘』など日本歌謡史に大きく貢献した服部良一をどこよりも分かりやすく紹介します。
目次
服部良一の経歴
服部良一は、1907年に大阪で生まれた作曲家・編曲家です。
芸事の好きな家族の影響で小学生のころから音楽に親しみ才能を発揮していましたが、学校を卒業後には商人になるためと、商業高校に通いました。
当時加入していた少年音楽隊ではオーボエを担当していましたが、フルートに転向してから著しく進歩したと後述談があります。
1926年(19歳)大阪フィルハーモニック・オーケストラに入団。ここで音楽家エマヌエル・メッテルに見いだされ、4年にわたって音楽理論の指導を受けることが出来ました。
その頃から演奏や編曲の仕事を依頼されるようになります。
1934年(27歳)東京進出を計ったニットーレコードの音楽監督に就任。
1936年(29歳)日本コロンビアの専属作曲家となり淡谷のり子が歌う「オシャレ娘」を、翌年「別れのブルース」をリリースして大ヒットを飛ばすことになります。

服部良一は、ジャズやブルース、タンゴなどのテイストを和製ポピュラーに再構築して見事に日本人の心を掴みました。
その後、太平洋戦争が始まるとジャズテイストの音楽は適性音楽として排除され、軍歌一色の音楽の中、服部良一は自分の音楽を作り続け業界では評価されてきました。
1944年(37歳)音楽創作の場を求めて上海に渡り、ジャズの活動を続けました。
戦後、本格的に作曲活動を再開するとブギのリズムを取り入れたブギものを発表し、大当たりして、一大ムーブメントを起こしました。
笠置シヅ子が歌った「東京ブギウギ」は、服部良一の代表曲となりました。
また村雨まさをと名乗り「買物ブギ」など作詞も手掛けており、作詞をする場合、終生この名前を使っています。
また、古賀政男らとともに日本作曲家協会や日本レコード大賞の創設にも尽力に日本の歌謡曲の発展に貢献しています。
1969年(62歳)紫綬褒章を受章
1993年(85歳)死去。死後、国民栄誉賞を受賞
(ウィキペディア(Wikipedia)より引用)
服部良一の特徴
服部良一は、独特のメロディーと西洋音楽に基づくハーモニーの歌謡曲をいち早く世に送り出した昭和の音楽家です。
当時の西洋から入ってくる音楽の情報は、今と比べものにならないほど少なかったと想像しますが、その中でブルースやジャズ、その他の外国テイストのメロディーを作り出す才能は、他に比べる人は少ないと思います。
「蘇州夜曲」は名曲として有名です。
筆者は、この記事を書くずいぶん前から「蘇州夜曲」はいい曲だと言い続けていたのですが、今回記事を書くことで、いろいろ調べたところはやりこの曲は、多くの人から支持されていた曲だと知り嬉しくなりました。
東洋の雰囲気を上手く取り入れて日本風にした独特なメロディーをこの時代に作っていることは驚きです。
1937年に発表された「山寺の和尚さん」も一度聴いたら耳に残る曲です。

音楽評論YouTubeの「みのミュージック」の「戦前の邦楽がやばすぎた」の回で、この曲を取り上げてすごさを語っています。
古賀政男とともに日本作曲家協会や日本レコード大賞の創設に貢献していることも服部良一の大きな功績です。
ただ古賀政男は日本作曲家協会の初代会長になって20年勤めていることや、その他の情報から推測すると、古賀政男の方が歌謡曲業界においてヒエラルキーが高いのだろうと思います。
また、服部良一の息子は服部克久、その子の服部隆之ともに音楽家です。
最近では、良一の次男吉次は、ジャニー喜多川氏の性被害を受けたことでネットを賑わせています。