アート・ブレイキーは、アメリカのペンシルベニア州出身のジャズドラマーです。
ジャズ・メッセンジャーズのリーダーとしてモダンジャズを牽引し、多くのジャズレジェンドを輩出しました。
この記事では、ジャズ初心者向けにアート・ブレイキーと彼がリーダーとして活躍したジャズ・メッセンジャーズの経歴や名曲を分かりやすく紹介します。
目次
アート・ブレイキーの経歴
アート・ブレイキーは、1919年にアメリカのペンシルベニア州出身のジャズドラマーです。(マイルス・デイヴィスより7歳年上)
アート・ブレイキーが音楽に触れたのは、学校のピアノの授業がきっかけでした。授業以外でも自主的にピアノの練習をしてピアノの腕を磨いていました。
ピアノの腕前も上がりニューヨークに移ってクラブでも演奏していた頃、ある子供からピアノを弾かせてほしいと頼まれ、その子にピアノを弾かせるととんでもなくすごい演奏でした。
それを機にドラムへ転向することを余儀なくされてしまいます。この転向がなかったらジャズ史に名前を残してなかったかもしれません。
当然ながらドラマーに転向してもいきなり上手く演奏は出来ませんが、トランペット奏者ディジー・ガレスピーの指導もあり練習に励みドラマーとしての腕前を上げていきました。

1939年にフレッシャー・ヘンダーソン楽団に入団。
1944年にはビリー・エクスタイン楽団でドラムを叩くことになります。
1940年代後半ではビリー・エクスタイン楽団においてマイルス・デイヴィス、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカーらと共演して大いに影響を受けることになります。
その後、ビリー・エクスタイン楽団が解散するとアート・ブレイキーは、2年間ほどアフリカを旅行しています。
後に「アフリカへの旅行の目的は音楽ではなく、宗教や哲学を勉強しに行った」と言っていますが、ドラムにもその影響があったことは事実です。
1947年にはアート・ブレイキーズ・メッセンジャーズとしてアート・ブレイキーによる初のリーダーバンドの録音をしました。
1954年にはホレス・シルヴァーをリーダーにしてホレス・シルヴァー&ジャズ・メッセンジャーズを結成します。このバンドで一気に人気に火が付きました。

1956年には、ホレス・シルヴァーが脱退しアート・ブレイキーがリーダーとなります。
その後は、ジャッキー・マクリーンの後任としてバンドに加わったサックス奏者ベニー・ゴルソンに立て直しを任せます。
新メンバーとして発表した「Moanin’」が大成功を収め、アート・ブレイキーの最も代表する曲となりました。
1959年には、ベニー・ゴルソンがバンドを脱退し、ウェイン・ショーターがサックスを担当するなど、1980年代までメンバーの交代を繰り返しながらジャズ・メッセンジャーズを続け、多くのジャズミュージシャンを輩出することになります。
1990年7月の公演を最後に71歳で亡くなりました。

アート・ブレイキーの特徴
おそらくアート・ブレイキーの全盛期の録音があまりよくないこともあって、今聴くと正直に言うとインパクトに欠くかもしれません。
しかしアグレッシブなドラムスタイルの先駆者で、当時はかなりインパクトがあったと想像できます。
「ナイアガラ・ロール」と呼ばれるナイアガラを連想させるドラミングは、アート・ブレイキーを象徴しています。
「チュニジアの夜」に代表されるようにアフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとしても記憶されています。
テクニック的には、ドラムの側面を叩いたり、肘を使って太鼓の音程を変えたり、さまざまなテクニックをジャズに取り入れた功労者と言えるでしょう。
35年間に及ぶジャズメッセンジャーの活動や、このバンドを通じて多くの新人を輩出したことを考えると優れた統率力や指導力があったと伺えます。
当時は、薬物にまみれた音楽の世界でしたが、アフリカに旅行に行った時、イスラム教に改宗しアルコールや薬物を抑制できたことも大きかったと思います。
何回か来日もしており親日家としても有名でした。