ディジー・ガレスピーは、アフリカ系アメリカ人のトランペット奏者・バンドリーダー・作曲家です。
モダン・ジャズの始まりとしてサックスのチャーリー・パーカーと共にビバップを築いたミュージシャンです。
また、ラテン・ジャズの発展にも大いに貢献したミュージシャンとしても有名です。
この記事では、そんなディジー・ガレスピーの経歴と共に名盤・代表曲をジャズ初心者にも分かりやすく紹介します。
目次
ディジー・ガレスピーの経歴
ディジー・ガレスピーは、アメリカのサウスカロライナ州に1917年に生まれました。(マイルス・デイビスより9つ年上)
アマチュアミュージシャンだった父親の影響で音楽に興味を持ち14歳からトロンボーンを演奏し、すぐにトランペットに転向しました。
一家でフィラデルフィアに引っ越してきて、18歳の頃からプロのミュージシャンとして活動するようになりました。
20歳になり影響を受けていたエルドリッジの後任者としてテディ・ヒルバンドに入団しましたが、既存のスタイルに満足せず新たな演奏方法を模索していきます。
パフォーマンスで名を知られているキャブ・キャロウェイのバンドに参加しましたが、キャブと喧嘩をし、怪我を負わせることもありました。
1940年(23歳)頃、ガレスピーは余興のジャムセッションにおいてケニー・クラークやチャーリー・クリスチャン、セロニアス・モンクらとアドリブを追求した新しいスタイルのジャズを探求するようになります。
モダン・ジャズの誕生では有名な「ミントンズ・プレイハウス」においてジャムセッションに参加し、この時期に知り合ったチャーリー・パーカーとより革新的なジャズを創造することになります。
1946年(29歳)頃、ディジー・ガレスピーは何度もビッグ・バンドを組織し、ラテンのリズムをビバップにと入れてラテン・ジャズを勃興させました。
また、当時のミュージシャンとしては長生きで晩年もビッグ・バンドを組織して海外公演を行い、後進の育成も含め長く音楽活動を続けていました。
1993年(75歳)にジャズのレジェンドは人生の幕を下ろしました。
ディジー・ガレスピーの特徴
ディジー・ガレスピーの功績に対する世間の評価は、ハッキリ言うと低いように思います。ビバップをチャーリー・パーカーと共に始め、ラテン・ジャズを盛り上げたモダンジャズの重要人物としては、もっと評価されてもいいはずです。
若い頃にはしばしば喧嘩を起こし、暴れん坊の印象があります。また、黒人の有名人として初めて、アメリカ大統領選に出馬したことも有名です。
これらのことで他のジャズレジェンド達と比べると評判が良くなかったのかも、と想像できなくもないですが、何となくですが周りから人望がなかったのかもしれません。
ディジー・ガレスピーというと曲がったトランペットを使っていることでも有名ですね。
元は、パーティーの席で転んだお客さんがスタンドに置いてあったディジー・ガレスピーのトランペットに尻もちをついてしまい、トランペットが折れ曲がりました。
それでもステージがあったガレスピーは、そのトランペットを吹いたところ自分の耳に音が聞こえやすくなっていたので気をよくして、そのまま使っていました。
後日談として楽器メーカーに「曲がったトランペット」を注文し、その特許出願にも動きましたが、既に同じ出願が出されていたようで特許を取ることは出来ませんでした。
それでもディジー・ガレスピーといえば、曲がったトランペットはトレードマークとして定着しています。
マイルス・デイビスが書いた「マイルス・デイビス自叙伝」では、若きマイルス・デイビスが、ガレスピーをアイドルとして憧れていました。
当時のマイルスの演奏は、上手くなくガレスピーのテクニックには全く太刀打ちできなったようです。
ディジー・ガレスピーの演奏は、そのように当時から評価されていますが、ステージ上ではコメディアン的な茶目っ気たっぷりに聴衆にアピールしていました。
そのキャラクターとジャズに対する真剣そのものの考え方とのギャップは面白いものです。